長崎にいて長崎のお茶を扱っている者として、この事実から目を背けることはできません。 1945年8月9日午前11時02分、アメリカ軍が日本の長崎県長崎市に対して原子爆弾「ファットマン」を投下しました。この原爆の投下により、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊しました。 そして、この原子爆弾が人類史上において2回目かつ実戦で使用された最後の核兵器でした。 8月6日、広島の原爆投下から3日後、2回目の原爆投下でした。当初の計画では、福岡県小倉市(現・北九州市)を目標とされていました。しかし、当日の小倉上空の天候が悪く、また小倉から7km離れた八幡大空襲が前日にあり、その煙で視界が悪く、計画は、第2目標であった長崎に変更されました。 長崎も視界不良でした。当初の計画では、視界不良で目標が視認できない場合、最終的に原爆を太平洋に投下することになっていました。しかし、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いたのでした。その瞬間、原爆は投下されたのでした。 午前10時58分、高度9,000メートルから「ファットマン」を手動投下され、放物線を描きながら落下、約4分後の午前11時2分、市街中心部から北へ約3キロメートル離れた松山町上空500メートルで炸裂しました。 爆心地から500メートルの距離にあった浦上天主堂(現カトリック浦上教会)もその炸裂により、ほぼ原型を留めぬまでに破壊されました。投下の瞬間、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に来ていましたが、全員死亡しました。 この浦上天主堂のある浦上は、もともと長崎の北に位置する農村で、キリスト教の日本伝来以来、多数のキリスト教徒がいた場所でした。禁教となった江戸時代以降も信者(隠れキリシタン)がいたため、隠れキリシタン摘発が何度も行われた地でした。 そして1865年の信徒発見(220年間のキリスト教徒潜伏の歴史が終わる瞬間)の際にフランス人宣教師ベルナール・プティジャンの元を訪れたのも浦上のキリスト教徒たちでした。 原爆で一瞬にして廃墟となった浦上天主堂は、キリスト教解禁後に30年の歳月をかけて建築されたアジア最大のカトリック教会でした。 長崎の原爆により、4万人が即死し、7万5千人が負傷しました。 そして1945年末までに7万4千人の方が亡くなりました。 75年経った2020年8月現在、18万5千人がこの原爆によりこの世を去っています。 長崎の原爆投下の5日後、1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏しました。 日本の主要な都市は、2つの原爆投下以前に空襲により壊滅的な状況にありました。 そのため1945年5月には、日本の上層部(最高戦争指導会議)も日本の降伏について議論していました。 またアメリカ国内にも原爆使用に反対する人々もいました。(シラードの請願書など) 原爆の使用は、日本の降伏を早めることより、参戦が間近に迫っていたソ連を牽制することが目的だったとも言われています。 もちろん歴史に“IF”はありませんが、原爆を使用しないで第二次世界大戦を終える可能性がどこかにあったのかもしれません。 しかし現実には二度も投下されることになりました。 本当に残念ですが、歴史を変えることはできません。 そして2020年現在、世界には13000発以上の核兵器が未だに存在しています。 反対に世界中の学校で平和のためにヒロシマとナガサキのことは伝え続けられています。 しかし2016年にアメリカで大ヒットしたテレビドラマ『THIS IS US』(ディス・イズ・アス)の中で、Nagasakiという言葉は、「つぶす、破壊する」という意味で使われていたりもします。 世界の人々にとって、ヒロシマやナガサキのこと、平和やそれを脅かす核兵器について、どのように考えられたり、話されたりしているのかは、正確に知ることはできません。 しかし今、長崎にいて、長崎のお茶に関わっている者として、この事実から目をそらすことはできないと思っています。 自分たちのようなちっぽけな存在がこの事実に対していったい何ができるのか分かりませんが、ただ目をそらさず、自分たちにできることを模索したいと思ってやみません。 自分たちはお茶とともにある穏やかな時間を知っているのですから。 参考文献 オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史 西日本新聞