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栄西と冨春園(日本最古の茶畑)について

日本茶の始祖として名高い栄西。喫茶養生記という日本で最初のお茶に関する本を著し、また茶の種を中国より持ち帰ったとされ、栄西が日本茶の始祖とされています。

栄西は、1141年平安時代の末期に岡山で生まれました。8歳の頃には仏教典を読んだとされ、14歳で比叡山延暦寺に出家得度したと言われています。

栄西は2回、中国に渡っており、1回目は28歳の時(1168年)。
当時、形骸化し貴族政争の道具と堕落していた天台宗を立て直すべく、南宋に留学しました。当時の日本は平清盛(平家)が全盛の時代で、栄西は平家の庇護と期待のもと、南宋に渡りました。
その当時、中国は南宋と北宋に分裂しており、栄西は天台山万年寺(今の浙江省、上海の隣)などを訪れ、仏教(天台宗)を学びました。1回目の中国行きの際には、栄西がお茶を持ち帰ったという記録はありません。当時は仏教を学ぶのに忙しかったのかもしれません。
帰国後は、地元岡山のお寺(備前金山寺)を復興したり、福岡の誓願寺の創建に関わったりしました。

そして2回目の中国行きは、1回目から19年後の47歳の時(1187年)。
その時、栄西は中国(南宋)経由で天竺(インド)を目指していました。しかし当時の中国(南宋)は、南宋の他に金、遼などに分かれており、インドへの道中が、それらの国に占領されていたため、願いは叶えられませんでした。インドに行けないことが分かった栄西は、日本に帰国を決意し船に乗り込むも、天候に恵まれず、帰国することができませんでした。(風に吹き戻されたそうな。)
そして栄西は、「自ら謂(おも)えらく、未だ参訪を究めず。故に風濤、我れを阻むるならん(まだやり残してることがあるから、風に吹き戻されたんだ」と思い直し、再び浙江省の天台山万年寺を目指しました。
そして、ここで臨済宗の虚菴懐敞(きあんえじょうという名前のお坊さん)に出会い、師事しました。虚菴懐敞に出会い、栄西は臨済宗(禅)の修行を開始します。

そして二度目の入宋より四年後の1191年、栄西は帰国します。
帰国の折には、虚菴懐敞は栄西に「帰国布化末世、開示衆生、以継正法 之命(国に帰って、この教え(臨済宗)を広め、正しい教えを多くの人に伝えなさい。)」と言ったそうです。そして虚菴懐敞は栄西に必要な道具のすべてを与えたのでした。

ちなみに栄西がこの時に譲り受けた袈裟は今も岡山の金山寺(1回目の帰国後、復興したお寺)にのこっています。(2020年8月に公開されました。)

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1191年8月、栄西は平戸島(長崎県平戸市)の葦浦(現在の古江湾)に帰り着きました。そしてその地に「冨春庵(ふしゅんあん)」という禅庵を開きました。そして8月8日に地元の漁師数十名を集め、禅規を開きました。これが日本での禅の始まりとなったそうです。
またこの時、「冨春庵の裏山に茶種を蒔き、製茶や喫茶(抹茶)の法を教えた」とのことで、その茶園は冨春園と呼ばれています。

禅院を「冨春庵」、茶園を「冨春園」と名付けた由来は、浙江省の大河・富春江にちなんだと言われています。
そしてこの年(建久2年:1191年)に「脊振山」(せぶりやま)の中腹にも栄西が茶の種を植えたと言う記録「梅山種茶譜略」が残っています。ちなみにこの「梅山種茶譜略」は、お茶の歴史や作法などをまとめた本で売茶翁(高遊外) が著しました。

当時、脊振山(霊仙寺)は、天台密教系の山岳仏教の聖地で、平安~鎌倉時代には「脊振千坊」(せふりせんぼう)と呼ばれるほど栄えた修験の山でした。中国に渡る人々の信仰を集め、栄西だけでなく、空海・最澄など、多くの僧侶が航海の安全を祈願したと伝えられています。しかし霊仙寺は戦国時代には荒廃し、現在では霊仙寺跡として、佐賀県吉野ヶ里町にのこっています。

また一般に日本最古の茶園として知られる栂尾高山寺(鳥獣戯画で有名)の茶園は、栄西から茶の種を贈られた明恵上人が植えたとされます。

帰国後、栄西は感応寺(鹿児島県出水市:1194年)や聖福寺(福岡県博多市:1195年)を建立し、禅の普及に努めますが、延暦寺や興福寺からの排斥を受け、禅宗停止が宣下(天皇の命令)されました。

当時の日本は、鎌倉幕府が始まったばかりで、平清盛らにより焼き討ちにされ、消失した東大寺の復興が行われていました。それと同時に鎌倉新仏教と呼ばれる、現代でも広く知られている浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗などの開祖が活躍した時期でもありました。つまり日本における宗教改革の時代で、新旧の仏教がぶつかり合う時期でした。

そのような時代背景のもと、栄西は主著である「興禅護国論」を1198年に執筆し、禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説きました。京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとしました。

1202年、建仁寺を京都に建立。現在、建仁寺は臨済宗の総本山ですが、建立当時は、禅・天台・真言の三宗兼学のお寺でした。また1206年に栄西は東大寺の大勧進職(総責任者)に就任しました。

そして1211年、日本で初めてのお茶の本「喫茶養生記」を著します。栄西、71歳の時、中国から茶の種を持ち帰ってから20年後のことでした。ちなみに「喫茶養生記」は、上下2巻に分かれており、上巻が茶(カメリアシネンシス)について、下巻が桑の葉のお茶について著されています。

また「喫茶養生記」には、お茶の製法として

「朝摘み取るとすぐにこれを蒸し、すぐに焙るのである。飽き性の怠け者では、この仕事はできないのである。焙り棚に紙を敷いて、紙の焦げないように工夫して茶を焙るのである。その焙り方は、ゆっくりでもなく、急でもなく、夜通し眠ることなく、夜のうちに焙りあげ、それをすぐに上等の瓶に盛りこみ、竹の葉を持ってその口を堅く封じる。」

とあります。「蒸して、焙る(あぶる)」、つまり抹茶の原料、碾茶(てんちゃ)の製法を伝えています。

そして「喫茶養生記」を著した4年後1215年、栄西は75歳でその生涯を閉じます。仏教のために情熱を燃やした75年の生涯でした。

「喫茶養生記」にて栄西は、「茶は万病の薬」として喫茶の重要性を説きました。
栄西が生きた鎌倉時代の平均寿命は24歳。貴族階級でも40〜50歳の平均寿命だった時代に栄西は驚異的に長寿だったと言えます。

きっと栄西の長寿は、お茶を飲み、情熱的に生きたからにちがいありません。
栄西のように生涯情熱を傾けられる何かを持ち、成し遂げたいですよね。お茶を片手に。

参考文献
喫茶養生記 (栄西 著)

栄西が将来したものについて ―日中交流からみた僧・栄西
(岩間 眞知子 著)

栄西と「喫茶養生記」 (岩間 眞知子 著)

「梅山種茶譜略」(高遊外売茶翁 著、天保9年)