日本茶が海外に紹介されたのは、1610年長崎平戸からオランダ商船がヨーロッパに持ち帰ったお茶が最初でした。このお茶がヨーロッパにとって初めてのお茶でした。その後、イギリスをはじめ、西欧諸国はお茶に夢中になり、世界を変えてゆきます。
しかしその後日本は1639年、江戸幕府による鎖国政策により、日本茶の輸出はほとんど途絶えてしまいました。
その後、1760年にオランダ東インド会社によって、うれしの茶が長崎から輸出されたという記録もあるようですが、それ以降の輸出に関しては記録がありません。理由は、オランダの国力低下もあるようです。ちなみにオランダの東インド会社は1799年に解散しています。
日本茶の輸出が本格的に始まったのは、初めて日本茶が世界に紹介されてから200年以上のちの1853年のことでした。そしてこの時日本茶が輸出された場所も長崎だったのです。
1853年7月には黒船来航があり、日本は300年続いた江戸幕府がまさに終焉を迎え、明治という新しい時代へと変革が始まったばかりの動乱期でした。また世界は、ヨーロッパ諸国による植民地主義が進行しており、1842年にはアヘン戦争で中国(清)がイギリスに敗北を喫するという状況で、世界もまた大きく変化していた時期でした。
そのような時代背景のもと、日本茶の輸出が始まりました。
この時最初に日本茶の輸出を始めたのは長崎市内の油屋に生まれた大浦慶と呼ばれる女性でした。大浦慶は活発な女性だったようで、1848年には日本の外側の世界を見たくて、茶箱に隠れて上海に密航したという話もあります。(インドにも行ったと言われている)大浦慶が20歳の時でした。当時、日本は江戸幕府による鎖国政策が続いており、出島のみが中国とオランダに開かれていました。
密航から4年後の1853年、大浦慶は通詞(通訳士)品川藤十郎と協力して出島にてオランダ商人テキストルに嬉野茶を託し、イギリス、アメリカ、アラビアの3ヶ国へ茶を送ったのです。オランダ商人テキストルは、出島のオランダ商館で補助官をしていた人物で日本人の妻子がいました。またテキストルは1848年に大浦慶が密航するのを手助けしたとも言われています。
そして1856年8月、イギリス商人オールトが来航し、大浦慶は12万斤(72トン)の注文を受けました。テキストルに託したお茶がきっかけとなり、オールトは大浦慶を訪ねたと言われています。当時12万斤(72トン)という注文は、嬉野茶だけでは賄うことができず、九州一円の茶産地をめぐり、やっとのことで1万斤(6トン)の茶葉を集め、アメリカに輸出しました。これが日本茶輸出の先駆けとなったのです。大浦慶が28歳の時でした。
その後1858年には、5カ国(米・蘭・露・英・仏)との修好通商条約を江戸幕府が締結し、長崎・横浜・函館が自由貿易港として開港し、長崎からは年間240トンのお茶が輸出されるようになったそうです。大浦慶の茶輸出も好調で自宅の裏に製茶工場を建設し、坂本龍馬率いる亀山社中など幕末の志士たちの面倒も見ていました。
その後日本茶の輸出は急増し、1880年には2万トンに迫る凄まじい勢いで成長します。しかしそのような急成長の中で粗悪茶も出回り始め、当時緑茶の最大輸入国だったアメリカで粗悪茶の輸入を禁じる「贋製茶輸入禁止条例」(1883年)が制定されました。
日本でも1884年に茶業組合(現在の日本茶業中央会の前身)が設立され、粗悪茶の規制が始まります。そして1893年には静岡県では粗悪茶の一つとして釜炒り茶の製造が禁止され、その動きは全国に広がり、全国的に釜炒り茶の製造は取締の対象になったようです。理由としては、釜炒り茶と日干し茶が混同され、釜炒り茶は低品質と誤認されたためのようです。
1890年代に日本茶の輸出は、2万トンを超え、ピークを迎えますが、その後1910年代までは、ほぼ2万トン前後と横ばいで推移します。
その後、日本茶の輸出は、1917年にピークを迎えます。理由は第1次世界大戦によるところが大きかったようです。ピークの1917年には輸出量は約3万トンで、当時の茶生産量が4万トンであったことから、国内生産量の75%が輸出されていたことになります。政府も茶の増産に力を入れ、当時お茶は絹につづく第2位の輸出産品として重要な輸出品目だったのです。
しかしその後、第2次世界大戦、高度経済成長などにより、日本茶の輸出は減少し、1993年には過去最低の253トンまで減少します。
その後、増加傾向にあり、特に近年輸出が伸びており、2019年には5000トンを記録しました。
今再び日本茶の海外輸出は脚光を浴びており、これからも日本茶の輸出は伸びると予想されています。
その流れは150年前の長崎、そして一人の若き女性から始まったのでした。